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展覧会、講演、公演などについての覚え書き

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シンポジウム「過去はいかにして捉えられるか」(京都大学大学院人間・環境学研究科、2004年12月12日)
京都大学の院生を中心とした〈哲学・思想、若手研究者の会〉による、「記憶・歴史・物語り」をテーマとしたシンポジウム。

ポール・リクール、マルティン・ハイデガー、アーサー・ダントーなどの思想を軸に、「過去を捉える(過去を想起する、過去について語る)」という行為にまつわる問題が議論される。多様な問題提起にもかかわらず、全体を通して議論の中心となったのは過去の実在性・真理性だった。最終的には、過去についての言説の真理性は現実との対応関係によって保証される(=真理の対応説)のではなく、過去についての言説全体における整合性の観点から保証される(=真理の整合説)、という点に落ち着いたと言える。

「テクストの外で生きることの不可能性」(ロラン・バルト)。けれども、ここでさらに問うべきなのはテクストの外部(現実への指示)についてではなく、むしろその「整合性」なるものの内実についてではないだろうか(そしてまた、「整合性」=「調和」という主題は、きわめて美学的な主題でもあるだろう)。今回の議論ではあまり言及されなかったが、ダントーの「物語り」概念の革新性はやはり、過去についての言説がつねに複数の出来事に(複数の時間に)言及するものであることを示したところにあるだろう。

この観点をさらに展開するなら、過去とはつねに複数の出来事の星座=布置であることになる。過去についての言説においては、パラドクシカルなことに、過去の出来事が単線的な時系列に沿って並んでいるわけではない。むしろ、過去の出来事は共時的に(あるいは錯時的に)存在している。ここにおいて「物語り」は、ジャック・ランシエールやジョルジュ・ディディ=ユベルマンらが論じる「アナクロニスム」の問題へと接続する。構築主義の隆盛によってふたたび復活した歴史主義に抗して、けれどもテクストの外部にアルキメデスの点を求めることにも抗して、いかに過去を捉えるべきかを考える必要がある。

(2004年12月12日)

マリオ・ペルニオーラ講演会(京都大学大学院人間・環境学研究科、2004年12月2日)
イタリアの哲学者マリオ・ペルニオーラによる、ハンナ・アレントと美学・芸術をめぐるふたつの講演。

ひとつめの講演「現代美術を修復するか、維新するか」では、ロマン主義以降の芸術がヴィタリスムとフェティシスムに陥っていくさまを、ハンナ・アレント『人間の条件』における「労働」「仕事」「活動」の区別をもとに鮮やかに描きだす。本来は「もの」をつくりだす「仕事」であった芸術が、「活動」と「労働」にも進出することで、パラ政治(プロセス偏重)、パラ経済(市場偏重)を生みだし(→ヴィタリスム)、さらにまたパラ芸術(素材偏重)となっていく(→フェティシスム)、という議論はひじょうに興味深い。

ふたつめの講演「ハンナ・アレントにおける芸術と美学」では『人間の条件』におけるアレントの議論の射程が考察される。近代においては「労働」が優位に立ったために「仕事」と結びついていた「技術」が凋落してヴィタリスムが出現する、というアレントから導きだされた観点は、「近代は技術の勝利の時代」という一般通念(それはたとえばハイデガーやアドルノにも見られる)を鋭く問い直している。「技術」の凋落は、生を超えて残り続ける「もの」の生産を停止させ、そうした共通に語り合える「もの」によって構成されていた「公共世界」を消失させ、「活動」をも失墜させる。そうした観点からすれば、「技術」とは否定されるべきものではない。そういえばナチスもまた、近代=技術批判をその中核に据えていた。そう考えるなら、なおのこと技術批判については緻密な考察が必要だろう。技術の本質とは、本当にその自己目的性にあるのだろうか。

どちらの講演にも共通しているのは、ペルニオーラ自身の問題意識であるだろう、ヴィタリスムとフェティシスムに対する批判である(それはまたアクチュアリティへの批判でもあり、モダニズムに対する批判でもある)。ヴィタリスムはすべての価値をプロセスへ(さらには出来事へ、その予告へ、コンセプトへ)と転位させ、フェティシスムはすべての価値をオブジェへ(マテリアルへ)と転位させてしまう。そのどちらでもない第三の道はどこに見いだされるのだろうか。おそらくそれは「もの」であり「技術」だろう。だがこの「もの」や「技術」の内実についての考察は、いまだ曖昧なまま残されている。

(2004年12月2日)

『痕跡――戦後美術における身体と思考』展京都国立近代美術館、2004年11月9日〜12月19日)
「表象」ではなく「痕跡」という視点から、1950〜70年代の芸術作品を捉えなおそうという展覧会。

今回の展示では、アクション・ペインティングやアンフォルメル、ウィーン・アクショニズム、具体といった50年代の動向が前面に押しだされている。そのなかでも、ウィーン・アクショニズムはその過激さ(むしろエグさ)の点において、卓抜している。スキャンダラスな行為によって執拗に塗り込められたその表面は、どこか猟奇じみていて、おぞましい。

とはいえ、もともと「痕跡」や「インデックス記号」という概念は曖昧なものだ。「痕跡」概念とは関係概念のひとつであり、つねに「なにものかの」痕跡しか存在しえない。「表象」がつねに「なにものかの」表象でしかありえないのと同じように、である。その意味で、「表象」と「痕跡」とを対比的に捉えることができるのかについては疑問が残る。

「痕跡」として提示された作品群の内部に、「行為性=身体性=主体性」と「物質性=素材性=客体性」との分裂があることがすぐに見て取れる。そこに、たとえば「観念性」への志向、「もの性」への志向が重なる。今回展示されている作品の数々が、いったいどこまで痕跡「として」受容されるのについては、もう少し慎重にならなければならない。あの画面から、痕跡として残された身体の運動を感じるのだろうか、それとも剥き出しの物質性、そのテクステュアを感覚するのだろうか、それとも連想によってさまざまな観念が重なってくるのだろうか。

展示は、「表面」「行為」「身体」「物質」「破壊」「転写」「時間」「思考」のセクションに区切られている。これだけでも、「痕跡」の概念にもとに包摂されたものの多様性が知れる。いったいどこまでを「痕跡」と呼びうるのだろう。この重要な問いは、「痕跡」という概念の解体を示唆しているように思う。

(2004年11月18日)

『IN BED――生命の美術』展豊田市美術館、2004年10月5日〜12月26日)
ふだんあまり意識することはないものの、誕生、眠り、夢、愛、病、死などのさまざまな問題系が交錯する特権的な事物である「ベッド」を扱った現代の芸術作品を集めた展覧会。

かつてアーサー・ダントーは、とある批評のなかで、ベッド・シーツを写したマン・レイの写真作品が《動く彫刻》ではなくそのまま《ベッド・シーツ》と題されていたなら、性、眠り、病、誕生といったさまざまなイメージを孕んだ作品となっていただろう、と述べていた。そのことがふと思い出される。ダントーが思い描いた《ベッド・シーツ》ほど率直な作品はないが、総勢22名の現代作家による作品群はそれぞれ「ベッド」の異なる側面をクローズアップしている。

個人的にはビル・ヴィオラのインスタレーション《心臓の科学》がいちばん印象に残る。映像生成のメカニズムや撮影行為といったものに対するメタレヴェル的な言及をおこなうヴィデオ・アート作品が多いなか、ヴィオラは映像それ自体の質で直球勝負をする希有な作家のひとりだが、今回も剥き出しの心臓の映像をループさせつつ速度をゆるやかに変化させることで、強烈なインパクトをつくりだしていた。あのエグい映像をこれでもかというほど執拗に見せつけつつ徐々に速度を落としていくことで、異様なまでに強烈な印象をつくりだす手腕は、映像の速度と強度が不可分であることを熟知しているヴィオラならでは。最近では、一見して綺麗なだけの映像に見えてしまうインスタレーション作品も多く発表していたヴィオラだが、ヴィオラの作品の特徴はやはりこの異様なまでの映像の強度なのだと再認識する。

ほかにも、草間彌生《ナルシスの庭》において、床に敷き詰められた無数のミラーボールすべてに自分が映り込んでいるという光景の異様さや、クリスチャン・ボルタンスキー《ベッド》の傾いたベッドと剥き出しの蛍光灯がもつ寒々とした印象、ロン・ミュエク《マスクU》の巨大なプラスティック製顔面がもつ妙なリアルさと空々しい嘘っぽさの奇妙な混淆、などが記憶に残る。

(2004年11月6日)

ルチアーノ・ベリオ《セクエンツァ》全曲演奏コンサート(知恩院、知恩寺、法然院、2004年10月23、24日)
20世紀イタリアを代表する作曲家ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)が独奏楽器のために作曲した《セクエンツァ》シリーズ全17曲を一度に演奏してしまおうという意欲的なプログラムのコンサート。

ベリオは新しい演奏技巧だけでなく古典的な演奏技巧も巧みに取り込み、ひじょうに高度なヴィルトゥオジテを駆使した作品を数多く書いたが(その辺は、ベリオよりも後の世代だが、同じくイタリアの作曲家サルヴァトーレ・シャリーノなども同じ)、今回聴いた《セクエンツァ》シリーズもまた各楽器の可能性を極限まで引き出そうとするかのようにさまざまな技法を駆使している。奏法の急激な切り替えによって、音色、音価、音高の面で瞬間的な断層をつくりだし、たったひとつの楽器から多層的な音を紡ぎだしていくさまは、まさにベリオの真骨頂だろう。とりわけ《セクエンツァVIIa(オーボエのための)》と《セクエンツァVIIb(ソプラノ・サクソフォンのための)》で聴かれる、背景でかすかに響くドローンとそれを切り刻む短く鋭いパッセージとの対比がとても面白い。また、循環呼吸を駆使してひとつのドローンを執拗に維持しつつ、ときにそれが炸裂するかのように乱れる《セクエンツァXII(ファゴットのための)》も素晴らしい。

(2004年10月23日)
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