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展覧会、講演、公演などについての覚え書き

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ゲアハルト・ヴォルフ講演会「真のイメージ――ビザンティウムから西方までのキリストの顔」京都造形芸術大学比較藝術学研究センター、2006年12月12日)
ドイツの美術史家ゲアハルト・ヴォルフによる、古代末期から初期近代までのキリスト表象の変遷と歴史を辿る講演会。

キリストの顔は唯一のものだが、それでも多数のかたちのもとで無数に表象される。この事態は、キリストが神である(=表象不可能)と同時に人である(=表象可能)という事態と密接に結びついたものであり、パラレルなものであるという。このことが冒頭で示唆されたあと、講演は時代に沿って、古代末期の初期キリスト教におけるキリストの寓意的な表象から、人間の姿で描くイコンの成立、東方(ビザンティン)におけるマンディリオンの逸話、西方(ローマ)におけるヴェロニカの逸話を経て、ルネサンスとバロックの肖像画およびイマーゴ・ピエターティスへと流れていく。

キリストの表象の変遷を通史的に辿ったひじょうに明快な講演で、いくつかの具体的な作品に絞り込んでの丁寧な分析とあいまって、講演の最後まで飽きずに楽しむことができた。とはいえ、話の枠組みとしてはすでに既知のものという感じもあり(そう感じるのは、学部一年の頃から美術史の授業でキリスト教イコン論を叩き込まれたという個人的な経緯によるのかもしれないが)、その点は少し物足りなく思う。いよいよヴォルフ自身の議論が展開されるかと思いきや、すぐ次の話題に遷ってしまう。もちろん、こうした講演で目の覚めるような受肉論の美術史的読解を展開する時間的余裕などないだろうことはわかっているが、もう少しキリストの表象をめぐる理論的な考察を展開してほしかったようにも思う。

とはいえ、講演中わずかに示唆された、イコンとイマーゴ・ピエターティスをキリスト表象の両端(様態的にも時代的にも)に配して、その転換点を神と人の形象が交差するルネサンスの肖像画に見いだす、という切り口については、面白く感じたりもする。また、布と皮膚とが伝統的に記憶のメタファーであり、それがヴェロニカの布をめぐって展開されている、という示唆についても。これらはいったいどのように展開しうるだろうか。

(2006年12月12日)

『ビル・ヴィオラ――はつゆめ』展森美術館、2006年10月14日〜2007年1月8日/兵庫県立美術館、2007年1月23日〜2007年3月21日)
ヴィデオ・アート黎明期から一貫して運動するイメージの力を巧みにひきだした作品をつくりつづけているビル・ヴィオラのアジア初の大規模な個展。

大規模な画面と先端的な映像技術をもちいた近年のインスタレーション作品が中心に展示されているものの、そこには、初期作品から一貫しているスローモーションへの鋭敏な意識を見て取ることができる。展示されているどの作品も焦れったいほどに緩慢な動きを見せる。数十分ひたすら待ち続けるか、数秒でほとんどなにも見ずに通り過ぎるか、そのどちらかしかありえないほどに、緩慢な動き。このスローモーション、この緩慢な動きをまえにして感じる、耐えがたいまでの焦燥感と緊迫感。

ヴィオラほどスローモーションにこだわりつづけている芸術家も珍しいかもしれない。だが、スローモーションへの鋭敏な意識、イメージの速度がその強度と不可分であることへの鋭敏な意識をヴィオラの作品から取り払ってしまえば、そこにはもう豪奢で神秘めかした映像しか残らないだろう。初期の頃から象徴めいた表現(ユングやニューエイジに通じるような)をもちい、近年では西欧絵画の伝統を明らかに意識した(いくぶん過剰とも思える)イコノロジックな作品を発表しているヴィオラだが、おそらくヴィオラの魅力はそこにはない。イメージの動きと情動的な力との縺れあい、その不可解な絡みあいをあらためて俎上にのせる(しかも肌理の細かい美しいイメージというかたちで)ところにこそ、ヴィオラの作品がその忘れがたいイメージをわたしたちのうちに灼きつける理由があるだろう。

そのためか、もっとも印象的だったのは、過剰に象徴的な大画面の作品よりも、描かれたタブローのような小さなモニターに映し出されている三つの肖像《アニマ》だった。1分の映像を81分に引き延ばしたというこの作品は、映し出された顔がほとんど知覚できないくらいに微かに変化していく。ある意味ではこの小品も人間の情念のイコノグラフィーにもとづいているのだが、実際に動いてるにもかかわらず「いまにも動き出しそう」な印象を与えるというそのパラドクシカルな効果において、際立っていたように思う。

(2006年11月19日/2007年2月20日)

『小川信治――干渉する世界』展国立国際美術館、2006年9月30日〜12月24日)
既存の絵画や写真を卓越した描写技術によって模写しつつ、その一部を改変することで、不思議なイメージ空間を生みだしている小川信治の個展。

レオナルド、ベラスケス、フェルメールらの絵画からその中心人物だけを取り去って描いた《Without You》シリーズ、古いモノクロ写真を鉛筆で模写しつつ、そこに写されたピサの斜塔をふたつに増やしたり、水面に映る影をふたつに増やしたりする《Perfect World》シリーズなど、どの作品も既視感と違和感を巧みに触発する。

二年前に『コピーの時代』展(滋賀県立近代美術館)でその作品を見て以来ずっと気になりつづけていた小川作品をこうしてまとめて見る機会を得て、あらためて感じたのは、オリジナル作品との差異というよりも複数の作品間の多彩な連続と分岐にこそ、面白さがあるということだ(もちろんその卓越した技巧の愉悦もさることながら)。《連続体》や《風景連続体》のシリーズに典型的にあらわれているような、「可能世界」あるいは「家族的類似」ともいうべき作品同士のつながり。その意味で、「干渉する世界」という展覧会の副題はとても示唆的なものように思う。「干渉(interference)」とは「互いに−担われること(inter-ference)」であるといったミシェル・セールの言葉がふとよぎる。タブローの境界を飛び越えて、モチーフが輸送されていく、その運動の軌跡。生きているイメージ?

(2006年11月12日)

『GARDENS――小さな秘密の庭へ』展豊田市美術館、2006年9月30日〜12月24日)
五感すべてを通して感覚できる空間としての「庭」をテーマにした現代美術作品を集めた展覧会。

高木正勝《EL VIENTO》の音響が洩れ聞こえるなか、まず最初に、鈴木昭夫《みたて/須弥への韻律》の雲のように敷き詰められた松の葉が香る。またしばらく先のエルネスト・ネト《私たちのいる神殿のはじめの場所、小さな女神から、世界そして生命が芽吹く》が、いつものネトらしい微かに甘い植物的な香り、あるいは穀物的な香りを漂わせている。この展覧会を通して記憶に刻みつけられたのは、なによりもこうした香りだった。

香り、そして音。思い返してみれば、たしかに「庭」という空間を訪れるとき(そしておそらくそれ以外の空間に対しても)、自分はこのふたつのものに対する感覚に、つねに意識を向けていたように思う。いや、空間というだけでなく、おそらく多くの場合に、自分は顔や表情よりも身に纏っている香りとその声を通して人間に接し、事物にも触れているのではないだろうか。ナタリー・ドゥプラズが言ったように、香りに対する感覚というのは、散漫〔diffus〕というよりもむしろ拡散的=伝播的〔dissusif〕なもので、移り、遷り、映ろっていく。香りは、とらえどころがないというよりも、いやおうなしに浸透されてしまうもののように思う。

洩れ聞こえる音楽がいっそう静けさを感じさせるフロアを歩きながら、栗林隆《Divider》の額縁の先にある少しばかり神話的な雰囲気を感じ取り(アザラシはその皮を脱ぐと美しい女性になるというのは北欧に伝わる伝承だっただろうか)、小粥丈晴《泉》の樹木と陶器がその境界を砂のなかに消していくのを見つつも、意識はつねにもう香らないはずの松の葉の香りに浸されていた。

(2006年11月4日)

アクースモニウム・ライヴ「ih plus vol.1 リュック・フェラーリ追悼特集」全興寺、2006年9月23日)
24チャンネルのスピーカ・システム「アクースモニウム」をもちいた石上和也(i)と檜垣智也(h)によるコンサート。二氏の作品に加え、今回は昨年亡くなったリュック・フェラーリの追悼として、五つのフェラーリ作品を演奏。

上演されたフェラーリ作品は《少女たちとほとんどなにもない》(1989)、《ストラトーヴェン》(1985)、《偶発音のエチュード》(1958)、《トートロゴス》(1961)、《ソールスベリー・カクテル》(2002)の五つ。どの作品もすでに聴いたことはあったが、今回はじめての経験となるアクースモニウムのシステムで聴くと、音の立体感がより際立ち、さらに面白く聞こえる。もう少し音量があると細部がより鮮明になってさらに面白かったのではないかとも思うが、なにぶん解放されたお寺でのこと、近隣への配慮もあったのかもしれない。

今回聴いたフェラーリ作品のなかでは、やはり《ソールスベリー・カクテル》にもっとも惹き込まれる。ゆっくりと重なり渦巻いていく持続音と、不思議なタイミングで切り替わるリズムとの組み合わせが面白く、また美しい。《ストラトーヴェン》も、ベートーヴェン《交響曲第五番》とストラヴィンスキー《火の鳥》を混ぜただけという一発ギャグ的な音楽だが(皆、眉一つ動かさずに真剣に聴いていたものの…)、あらためて聴くとかなり巧みなリズム構成になっている。なかなか真似のできない巧みな(そして期待を裏切り違和感を残す)音の切り替えと切断こそが、フェラーリ音楽の真骨頂だろう。

石上作品は持続音が特徴的で、緩急連続的に移行していくのが心地よい。切断や変化もその連続性を打ち破るほどのものとは感じず、フェラーリの切断感覚とはちょうど対照的な印象を受ける。檜垣作品《Mahoroba》は、フェラーリへのオマージュをはっきりと打ち出して、フェラーリ作品からの引用があちこちに散りばめてあった。おそらくははじめからアクースモニウムを想定して作曲されたのだろう、今回の全上演作品のなかでもっとも音響空間の設計が行き届いていて、その動きを存分に楽しむことができた。

(2006年9月23日)

チェルフィッチュ公演「体と関係のない時間」京都芸術センター、2006年9月22日、23日、24日)
展覧会「Freeing the Mind、抽象再訪」に展示されている小山田徹《他人の家》を舞台にしたチェルフィッチュの公演。

いくぶんいびつな姿勢で緩慢な動作を繰り返しながら、家、子供、両親、夫婦などをめぐっているかのように思える言葉が、出演している三人によって順に、きわめてゆっくりと語られていく。三人は言葉を交わすことも重ねることもなく、ただ独白していく。舞台上では言葉が「交わされる」ことはない。けれども、それによってかえって「ね」というような些細な間投詞のもつ力が強く印象に残る。また、ごく稀に視線が交わされたようにも見えたが、そのとき、視線と表情のうちに思わずなにかを読み取ろうとしてしまう。そこに、その語りの遅さによってひじょうに暗示的なものとなった言葉が加わり、多様な連想を引き込んでいく。とはいえ、語られる断片的な言葉、引き込まれる連想は、漠とはしていてもそれなりの輪郭を描き出し、つまるところそこに浮かび上がる人間関係は夫婦と子供あるいは子供と両親という「核家族」にほかならないように思う。「家」をめぐる想像力は、その範囲から出ることはない。

チェルフィッチュの公演を見るのは初めてのことだが、聞いていた話から推測するに、今回の作品はいままでのとはいくぶん趣を異にしているようだ。この作品には、「日常性」とか「微かな違和感」とかで語れるようなものは稀薄だろう(もちろん、無理に読み込めないこともないのだが)。とはいえ、客席で物音が起こるたびに舞台上から客席に向けられる視線は、ふつうの視線でありながら、いつにない違和感を、居心地の悪さを感じさせた。それについては、見事な、けれどもひじょうに逆説的な異化効果というべきだろうか。

(2006年9月22日)

『アルベルト・ジャコメッティ――矢内原伊作とともに』展兵庫県立美術館、2006年8月8日〜10月1日)
アルベルト・ジャコメッティの彫刻やデッサンを中心に、矢内原伊作と交わされた書簡などの資料もともに展示した展覧会。

ジャコメッティといえばすぐにあの細長い彫刻が思い浮かび、その彫刻を論じたサルトルの怜悧な言葉が頭をよぎる。そしてまた、国境を越えた友人矢内原伊作をまえにして、「見えるがまま」を彫刻しようと格闘しつづけるジャコメッティ……、というような「いかにも」なイメージが頭に纏い付く。とはいえ、ジャコメッティの彫刻には、そうした想念を振り払ってしまうようななにものかが、「なにか知れぬもの」があるようにも思う。その細長さ、鋭さ、脆さは、知られるすぎるほど知られているにもかかわらず、あらためて記憶のなかに刻み込まれ、残りつづける。だが、いったい何が残っているのだろうか。線と円ばかりが際だっているデッサン、瘤と襞だらけの細く脆い彫刻。

今回の展示では、初期のシュルレアリスム期の彫刻作品も複数展示されている。どこかしら微笑みを誘うコミカルさ、それでいて気づかぬ間に傷を残す微かなとげとげしさが面白い。その後の彫刻やデッサンではこのコミカルな相貌は影に退いていき、その痛々しい鋭さが全面に突出してくるように思う。けれども、本当にそのコミカルさはまったく消え去ってしまっているのだろうか。その切り傷のような痛々しさのなかに、どこかしら微笑みを誘うものが漂い、残ってはいないだろうか……などと勝手なことを思いながら、ジャコメッティの彫刻に目を凝らす。

(2006年8月27日)

『三つの個展:伊藤存×今村源×須田悦弘』国立国際美術館、2006年8月8日〜10月1日)
伊藤存、今村源、須田悦弘の三人の展覧会。

須田作品は、いつものようのひっそりと置かれているわけではなく(ひっそりと置かれているチューリップもあったが)、狭い廊下をつくってその先に作品をひとつずつ展示されている。そのため、植物採集を楽しむような探索の楽しみはなくなり、作品に正面から向きあうという、いくぶん儀式めいたものになっていた。白く狭い空間のなかでやや上方から生えている植物の木製彫刻に向きあうと、その虚構性がいつになく否応なしに意識される。

今村作品は、「日常性」「懐かしさ」「微かな違和感」云々というよりも、その菌類的、あるいは植物的なモチーフが個々の作品を横断していき、展示空間のなかを飛び回り、根を張り巡らせ、作品を相互に結びつけていくさまが面白い。

(2006年8月27日)

『MITE! おかやま』展岡山県立美術館、2006年7月21日〜8月20日)
対話による鑑賞教育の実践などで知られるアメリア・アレナスの企画構成による展覧会。

現代の作品を中心にしつつも、古代ローマの肖像や中国山水まで、時代も地域も問わない作品が、広々とした空間にいっさいのキャプションなしに併置されている。展示中の唯一のことばは、アレナスが展示テーマを暗示したいくつかのパネルのみ(正確には、ひとつだけことばを伴う写真作品があったが)。人間の身体、人間の顔、皮膚や水や絵の具のテクスチュア、物語性、日常の事物。こうした主題のもとに、複数の作品が緩やかにつながっている。

いっさいのキャプションを取り去って、作品名も、作者も、時代も、地域も、なにもわからなくなったとき、作品は視覚的な類似によってつながりを保つようだ(とはいえ、その視覚的な類似は、作品に添えられたことばによってもまた強く喚起されるのだが)。水面と、絵の具の滴りと、手の皮膚とが、思いがけない類似性を見せる。見えるものは、互いに見えない合図を送りあうかのように、重なりあい、結びつきあい、連想を誘う。とはいえ、その視覚的な類似なるものの内実を見極める必要があるだろう。複数の作品を結びつけているのは、いったいなんなのだろろうか。それを、見るものの「心理」に求めることは、「そう見えるからそう見える」というトートロジーの誘惑に陥ることにほかならない。かといって、時間的で歴史的な「影響」や、あるいは無時間的で普遍的な「原型」に訴えることも、説得力があるようには思えない。作品同士を結びつける不可解な絆。

(2006年8月1日)

須田悦弘展丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、2006年7月16日〜10月1日)
小さな植物を精緻に模った木製彫刻を壁際や隙間に展示することで知られる須田悦弘の「雑草」作品を1フロアに展開した展覧会。

石垣、レンガ、コンクリートなどの隙間に雑草が生えているのは、いくども見かけたことのあるありふれた光景にすぎない。けれども、展覧会会場に、しかも気づかずに通り過ぎてしまいそうなほどひっそりと壁際に飾られた雑草(の彫刻)は、そのありふれているという感覚が転覆される心地よさを経験させてくれる。はじめて須田作品を見たのはもう何年も前のこと、直島の美術館でのことだったが、はじめは作品とわからず、あんな室内のコンクリート壁の高いところに雑草が生えているのはおかしいと思いながらも、そういうこともあるかもしれないと思って通り過ぎかけたのだった。案内をしてくれていた方の説明がなければそのまま通り過ぎていただろう。けれども、それが木でできた彫刻だと知って驚き、手の届かない位置にあるその作品をまざまざと眺め、室内のコンクリート壁に雑草が生えることのおかしさをどんなに自分に言い聞かせてみても、やはりそこに雑草が生えているように見えてしまい、軽い眩暈を覚えたのだった。今回の展示を見たときもまずその感覚が甦ってきた。

今回の展示では、ごくごく小さな雑草が無数に、1フロア全体の壁際のあちこちに散らばっている。壁伝いに移動して、雑草を見つけるたびにしゃがみこんで観察し、そしてまた立ち上がって次の雑草を探しながら移動する。室内で植物採集をするかのような、不思議な行動。探す楽しみと、その精巧さに騙される楽しみ。息を吹きかければ揺れそうなほど(もちろん実物の植物ではなく木製彫刻なのだから揺れないのだが)近くで見ると、たしかに少しつくりものめいた様子もあるものの、それでもやはり床から本当に生えているような気になってくる。トロンプルイユの楽しみは、たんに騙されることにあるのではなく、騙されていることを知りつつ騙されるその感覚にあるという古くからのパラドクスが、ここにも流れ込んでいるように思う。芸術のイリュージョニズムは単純ではないことを再認識する。

(2006年7月27日)

上映会「リュック・フェラーリ・フェスティバル――世界のざわめき、音の記憶船場アートカフェ、2006年7月21日〜7月23日)
惜しくも昨年亡くなったフランスの作曲家リュック・フェラーリ(Luc Ferrari, 1929-2005)の最晩年を映したドキュメンタリー(?)映画《リュック・フェラーリ――ある抽象的リアリストの肖像》、およびフェラーリが1960年代に企画した現代音楽ドキュメンタリー映画シリーズ《大いなるリハーサル》(全五作品)を一挙に上映するプログラム。

《ある抽象的リアリストの肖像》は、撮影期間は四日ほどだというが、フェラーリの日常のひとこまを巧みに切り取って繋ぎあわせている。スタジオでの作曲作業、料理の準備、友人たちとの団欒、夫婦喧嘩と仲直り、といったいくつもの場面を通して、大まじめにとぼける現代のエリック・サティともいうべきリュック・フェラーリの姿が浮かび上がる。真剣な顔で作曲をするフェラーリの背後にはなぜか若い女性のマネキン人形があり、その頭上にはかのクールベの《世界の起源》が飾ってあり、シークェンサの合間から見えるPCのデスクトップ画像は妖しげな肌色で埋め尽くされている。部屋のあちこちに違和感のある派手な絵画、花柄模様、彫像やマネキンがあふれているにもかかわらず、まるでなにごともないかのように日常が過ごされていく。フェラーリのモンタージュ感覚、デペイズマンの冴は、決して音楽だけのものではないことがよくわかる。

フェラーリ夫妻の服装、住居、スタジオなどの鮮烈なカラーリング(黒いコートから覗く発色の良い赤や青のマフラー、白い壁に映える真っ赤な花柄の食器棚、真っ青な枠の鏡、目や唇がモンタージュされた冷蔵庫、といったもの)が映像を彩り、美しいものにしている。場面の要所要所で挿入される庭の樹(リュック・フェラーリはここに埋葬されているという)には、たくさんのCDが吊り下げられていて(飾りのためか、鳥除けのためか、わからないが)、その色とりどりの反射光も美しい。その色彩の鮮烈さに対比させるかのように、最後のライヴの場面はモノクロ映像になり、CDJによるフェラーリとエリックMのプレイが流れていく。そして、エンド・クレジットが入ってから色彩が復活し、モンタージュが駆使された映像が入り、冒頭に回帰するかのように閉じられる。映像の技法について多くを語ることはできないが、最後のライヴ風景から冒頭の音楽へと回帰していく循環構造、および最後にさまざまな情景がモンタージュされていくさまは、フェラーリの音楽にもよく見られる構造ということを思い起こすと、フェラーリの肖像を描くにはうってつけの構造のように思う。あまり説明的ではなく、それでいて漫然としていない流れがつくりだされていて、最後まで心地よく観ることができた。

音楽に関わるもののなかでとくに面白かったものには、ひとつには、最後のライヴ場面での演奏スタイルがある。エリックMが明らかにアナログ・ターンテーブルの操作を模したDJプレイをおこなっているその横で、フェラーリは座ったまま、まるでピアノの鍵盤を叩くかのようにCDJを操作している。実際、若き日に結核で演奏を断念するまではフェラーリはピアニストを目指していたわけで、その身体技法がいまだ生きているのかもしれない。同じ楽器(二台のCDJとミキサー)をまえにして、フェラーリとエリックMがまったく異なる身体技法をもちいているさまを見ると、演奏というのがいかに身体の修練を必要としているのかが分かって興味深い。

(2006年7月21日/22日)

『プラド美術館』展東京都美術館、2006年3月25日〜7月2日/大阪市立美術館、2006年7月15日〜10月15日)
16〜17世紀を中心にしたプラド美術館所蔵の絵画作品を、国別(「スペイン」「イタリア」「フランドル・フランス・オランダ」)にして展示したもの(18世紀の絵画も、「ロココ」「ゴヤ」のセクションが設けられて、展示されていた)。

明暗の強い対比による事物の存在感の強調やそれと一見矛盾するような「幻視」というテーマの多さ、身振りの演劇性とそれに反する全体の静謐さ、といったものが印象的な16〜17世紀のスペイン絵画。鮮烈さと儚さ、実在性と幻想性の併存は、芸術を排斥した多くのプロテスタントに対抗して積極的に芸術擁護をおこなった対抗宗教改革の美学とも密接に連動しているかもしれないが、ともあれ、現実と虚構について、絵画なるものの在り方について、イメージなるものについて、深く考え込ませる力をもっている。全体的に、遠近感がどこかしら歪んでおり、奥行きの感覚に乏しく、むしろ個々のモチーフが迫り出してくるというのは、絵画がもちうる効果を追求したときに行きつくひとつの極点のようにも思う。

スペインの静物画(ボデゴン)も、たしかに北方の同時代の静物画によく似ているものの(個々のモチーフの独立性およびその順列組み合わせによる画面構成は、北方の静物画とも共通した特徴だろう)、どこかしらより鋭く切り分けられた質感があるように思う。サンチェス・コタンのボデゴンは、おそらく騙し絵的な効果を狙っているのだろうが、個別に描いた事物を寄せ集めたかのような不思議なバランス感覚で、その微かな違和が逆に面白い(ひょっとしたらスペインの当時のリンゴはあんなに小さく、チョウセンアザミはあんなにも大きかったのかもしれないが)。こうした感覚は、18世紀のボデゴンになるとなくなってしまう。もちろん、メレンデスのボデゴンのように、割れた柘榴や西瓜などがあれだけ寄せ集まっているのも壮観だったりするにしても。

(2006年7月2日/9月23日)

『内なるこども』展豊田市美術館、2006年4月14日〜6月18日)
現代美術における「こども」の表象を、「心象」や「記憶」などとも関わらせつつ、あつめた展覧会。

ケーテ・コルヴィッツ《戦場》で幽かに浮かび上がるこどもの顔。メダルド・ロッソ《ユダヤの少年》の蝋塊へと崩れゆきそうなこどもの顔。クリスチャン・ボルタンスキー《聖遺物箱(プーリムの祭り)》において電球に照らし出されたこどもの顔。こどもの顔はときにひじょうに強い印象をもたらすにもかかわらず、「こども」についてあらためて語ろうとすると少なからず困惑してしまう。愛らしさと不気味さのあいだで彷徨うこどもの表象群。それを、生と死、記憶と忘却、過去と未来、自己と他者といった両極性のうちで宙づりにされたイメージなのだ、と言ってみせることはあまりに容易い。幼年期についての語りのクリシェ。とはいえ、フィリップ・アリエスなどを引きつつそのクリシェを批判し、「こどもは近代の発明にすぎない」というフーコー主義的な語りを反復することもまた、あまりに容易い。こどもについていかに語るべきだろうか。

「こども」の表象でつねに全面に迫り出してくるのは、おそらく、つねにその顔であり、その頭である。それは、ただたんに体に比して頭部が大きいという単純な理由によるのかもしれないし、あるいは、たんに頭部が大きいというその事実自体が特異な印象を引き起こしうるものでありうるからかもしれない。もちろん、人間の表象においては――あるいはむしろアンソロポモルフィックな表象においては――頭が、顔が、もっとも強い印象を与えうるものであることはたしかであり、それは幼児であろうと老人であろうと大差ない。けれども、そこには密やかな逆転があり、大きな頭、大きな顔が「こども」という印象をもたらしてしまうようにも思う。逆転と循環。こどもと顔。

展覧会を見終えて印象に残っているのは、どれもその顔であり、頭部である。なぜだろう。「こども」は、その両極性以前に、「顔」の問いへとつながっているのだろうか。

(2006年5月24日)

講演会「美学と文化研究」(京都大学大学院人間・環境学研究科、2006年3月9日)
イタリアの哲学者ロベルト・テッローシとジュゼッペ・パテッラによる、美学と文化そして表象をめぐる講演会。

テッローシによる講演「表象と文化」は、古代ローマや中世神学から現代の認知科学や認知考古学に至るまでの広範な領野を経巡りながら、「表象」が文化や行為主体を構築していくさまをたどり、そこから帰結する表象の政治性(フーコー言うところの「生政治」のレヴェルにおける)や現代社会の状況を批判的に示唆したものだった。「表象」のことを、個体内に閉ざされたスタティックなものと見なすのではなく、複数の個体をよぎっていくダイナミックなプロセスと見なすという考えをひとつの軸にして、代理と反復、imagoとactio、古典的計算主義とコネクショニズム、といった複数の対立軸を通過し、表象を個体内に閉ざそうとする生政治を批判する。けれどもまた、表象の自足したオートポイエティックな運動(それ自体で「土地」となってしまった「地図」)についても懸念が示唆される。

表象の政治性を論じるあたりから論旨が錯綜しはじめ、十分に捉えきれなくなってしまうが、表象をactioと捉えて、imagoとしての表象を批判するという点は、面白く思う。テオリアからプラクシスへの転回? とはいえ、そのプラクシス、actioとしての表象は、なるほど個体主義に対する鋭い批判を展開することができるが、けれどもそれはジョルジョ・アガンベンが示唆したような意志の形而上学へと陥没しゆく危険性を秘めてはいないだろうか。別の言い方をするならば、actioとしての表象を「不均衡を生みだす不均衡」や「エントロピー」といった語で語るとき、それはミシェル・セールが疑問を呈した熱力学的な発想に接近するように見えはしないだろうか。それゆえ、imagoからactioへと向かうだけでなく、さらにその先を目指したいと思う。けれども、そこにはいったいなにがあるのだろう。

パテッラによる講演「美学と多文化主義の挑戦」は、美学とカルチュラル・スタディーズの接点(生産的であると同時に闘争的でもあるような)をさぐりながら、現代社会において不可欠の役割を演じている「美的なもの」の分析の精錬をねらったものだった、とひとまずはいえるだろうか。美学にもカルチュラル・スタディーズにも孕まれている予定調和的な文化主義の陥没をいかに避けるべきか、そして関心や趣味といった古典的な概念をいかに捉えなおすのかが、おもにピエール・ブルデューが参照されつつ論じられる。そうして提起されるのが、「関心ある無関心」というカテゴリーである。バルタサル・グラシアンの研究者らしいパラドクシカルなカテゴリーと言うべきか、それともイマヌエル・カントの伝統にある意味では忠実と言うべきか。とはいえ、その具体的な内実についてはいまだ捉えきれない。

(2006年3月9日)
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