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Events

展覧会、講演、公演などについての覚え書き

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『エルネスト・ネト』展丸亀市猪熊弦一郎現代美術館、2007年7月15日〜2007年10月8日)
胎内にも似た空間を伸縮性の布と穀物や香辛料でつくりだすインスタレーションで知られるエルネスト・ネトの個展。

フロア全体をもちいた大型のインスタレーションひとつだけが展示されている。これまでに触れる機会のあったネトの作品はどれもその甘い植物(穀物)的な香りが鮮烈な印象を与えてくれた。けれども、今回の作品からはあまり香りがせず、大きなスペースを充分に生かした作品ではあれ、期待していたよりもいくぶんインパクトに乏しかったように思う。とはいえ、作品内部からではなく作品の外側から回り込んではじめて見ることのできる作品の中心部には、大量のターメリック(鬱金)とクローブ(丁字)が詰め込まれた袋が置かれており、その突き刺すような鮮烈な香りにかすかに眩暈を覚える。この強烈な香りを湛えたふたつの袋が、今回の作品全体を支えているのだという。

(2007年8月4日)

『パルマ』展国立西洋美術館、2007年5月29日〜2007年8月26日)
コレッジョやパルミジャニーノからスケドーニまで、16〜17世紀イタリアのパルマに縁のある絵画を集めた展覧会。

ほとんどダニエル・アラスの触れているパルミジャニーノの素描《ウルカヌスの復讐》を見たいがために行ったようなものだったが、素描の思わぬ面白さを知る。パルミジャニーノの鋭敏さとスケドーニの重厚さを両極にして、展示されている数は少ないながらも、素描表現の広がりを見渡すことができるように思う。この素描から翻って油彩を見てみると、パルミジャニーノの柔和さのなかに剥き出しの鋼のような硬質さが、スケドーニの硬質さのなかに不定形の蠢きが感じられてしまうのはなぜだろうか。

(2007年7月18日)

『ル・コルビュジエ――建築とアート、その創造の軌跡』展森美術館、2007年5月26日〜2007年9月24日)
ル・コルビュジエの建築と絵画、そして思想を一望することのできる展覧会。

ル・コルビュジエの建築には、直線のなかに突如混じる曲線によって妙なコミカルさを感じてしまうが、逆に絵画には肌が粟立つようなぞわぞわした感覚を覚える。絵画は、全体としてはフェルナン・レジェ(や坂田一男)と近しい(そしてまた、今回あらためて、晩年の作品がジョアン・ミロに近いように思ったが)にしても、レジェや坂田やミロにはない皺や毛(とくに手の)にたいする感覚が、異質な印象を与える。抽象化のなかで決して還元されることのない皺。皺ひとつないつるっとしたキュビスムからの――あるいはこう言って良ければモダニズムからの――隔たり。

(2007年7月17日)

『ノイズレス――鈴木昭男+ロルフ・ユリウス』展京都国立近代美術館、2007年4月3日〜2007年4月15日)
まわりの自然環境を巧みに取り込んだサウンドアートで知られる鈴木昭男とロルフ・ユリウスによる夜間のみの展覧会。

夕暮れの薄明かりのなか、かすかな音だけが響く会場。窓の外に見える光景は、なぜか非現実めいて見える。こうした静かな音、あるいはその音を聞くことのできる環境がもつある種の政治性(行政的には観客動員数でしか展覧会を判断できない現在に抗する「夜間のみの開館」という試みは、その政治性から派生するもののひとつにすぎないだろう)が強く印象づけられるとともに、作品のうちに環境を取り込むということの意味をあらためて考えさせられる。なぜオブジェよりも、あの場の空気、陰影、光景のほうが印象に残っているのだろうか。あのときはたしてオブジェを見ていたのだろうか。

(2007年4月11日)

フェデリコ・ルイゼッティ講演会「芸術の場――美術館、作品、機械」(京都大学大学院人間・環境学研究科、2007年3月9日)
イタリアの哲学者フェデリコ・ルイゼッティによる、作品、美術館、機械という現代芸術の「場」をめぐる講演。

西田幾多郎の言う「場所」と「純粋経験」に言及することからはじめて、芸術を美的コミュニケーションの場とするウンベルト・エーコの考えに対してむしろコミュニケーションの不可能性を打ち出しながら、ルイゼッティは、現代の芸術の「場=経験」の主要な在り方を「作品」「美術館」「機械」のうちに探っていく。ジャン・ティンゲリーとマルセル・デュシャンの作品が取りあげられ、マイケル・フリードやハル・フォスターなど現代の美術史家や批評家もいまだ依拠している〈純粋な視覚/不純な触覚〉というフィードラー的な芸術学以来の図式が成り立たないことが指摘されつつ、芸術における「意図」と「実現」とのあいだの差異を強調したデュシャンのことばから、芸術作品という「場」はそうした差異にほかならないことが示唆される。

そしてルイゼッティは、そうした差異の場を、バロック以来の「機械」の概念に遡って素描しようとする。かけはなれたふたつの綺想=概念をひとつの表象へと結びあわせる「才知」としての「機械」。エマヌエーレ・テザウロやアタナシウス・キルヒャーが参照されつつ、自然と技芸という異なるものを結びあわせる才知=機械が「驚き」と不可分のものであり(その意味で哲学とも結びつく。というのも、もちろんプラトンもアリストテレスも哲学は「驚き」からはじまるとしているからだ)、偶然的で場をもたないものだと示唆する。そののち、シュルレアリスムのオブジェを絶対的な機械であると語ったジルベール・シモンドンに軽く触れたあと、ルイゼッティは、機械と身体のつながりを示唆しながら、アンリ・ベルクソンによるアリストテレスのトポス論への言及でもって講演を締めくくる。身体が場のなかにあるのは場のそとにあるかぎりでのことだ、と。

〈視覚/触覚〉〈純粋/不純〉という図式からの脱却、また場所や空間についてのハイデガー的な思考に対してベルクソンをはじめとしたフランス哲学(おもに実証主義やスピリチュアリスム)における場の思考に与しようというルイゼッティの志向には共感を覚え、芸術と機械との思わぬ結びつきについての示唆も興味深く聴く。とはいえ、芸術を「差異の場」と捉えるとき、そこで語られている「差異」の内実がいささか曖昧なように思う。はたして、「作品」における意図と実現のあいだの差異と、「機械」において才知がもたらす差異とを同じものと扱って良いものかどうか。そして、ここで差異について語ることはほんとうに重要なのだろうか。

(2007年3月9日)

ゲルノート・ベーメ講演会「靄の像、あるいは無への途上での写真術」(京都大学大学院人間・環境学研究科、2007年2月26日)
ドイツの「新しい現象学」を担う哲学者のひとり、ゲルノート・ベーメによる、靄が写り込んだ/靄を通して写された写真についての講演。

ベーメは、「それ自身は現象せず、そのほかのものの現象の仕方を変容させる靄」という視点から、靄が写り込んだ/靄を通して写された写真について論じ、そうした写真の記述と分析をおこなっていく。アルフレッド・スティーグリッツのよく知られた《終着駅》からはじまり、ベーメ自身の写真を織りまぜつつ、杉本博司やハンス・ダヌーザーらによる写真へ。靄によって被写体のあらわれ方がいかに変容していくのかを辿りながら、この靄そのものを写すことの不可能性へと議論は進む。靄は被写体を彩り、覆い、暈かしていく。それによって、ゲーテが記述したようなさまざまな効果が生みだされるが、しかし最終的にはすべての差異を掻き消す「無」へといきついてしまう。その意味で、靄そのものは写されえず、靄が写り込んだ写真は無への途上にある写真なのだ、という。

「それ自身では現象せず、そのほかのものを現象させる」といえば、まずなによりも、アリストテレスから新プラトン主義を経てキリスト教神学へと受け継がれていった「光の形而上学/メタファー」(ハンス・ブルーメンベルク)のことが思い浮かぶ。ベーメの議論の面白さは個々の事例のディスクリプションにあり、また靄を「雰囲気」のひとつと捉える点でロラン・バルトの洞察とも通じあう示唆をもたらしてくれるが、それでも議論の大枠はこの伝統的な「光の形而上学/メタファー」と同型的であり、いつのまにか否定神学のことばをなぞってしまっているように思う。靄はほんとうに「無」なのだろうか。

(2007年2月26日)

東島毅展岡山県立美術館、2007年2月9日〜2007年3月11日)
視界を覆う大画面に色彩を広げた抽象絵画で知られる東島毅の、1988年から昨年2006年までの作品を集めた個展。

視界を埋め尽くす沈む青、翳む銀。誰でもすぐに気がつくようなアメリカの抽象表現主義(とりわけマーク・ロスコとバーネット・ニューマン)との近しさについては、語ったところでたいした意味はないだろう。むしろ東島作品を見て気づくのは、表面の光沢がうみだしているそのテクスチュアである。滲むように変化する色彩のテクスチュア以上に、その光沢の変化は微妙であり、また同時に照明の反射を眼に灼きつける。それによって、観る者は色面のむこうへと入り込んでいくことができず、逆に色面のほうがこちらに迫り出してくることになる。

イヴ・クラインがあの粉末顔料によって光沢を消したのは、観る者を吸い込むような色面を生み出したかったからなのだろうか。光沢と反射によって、絵画の表面は観る者を拒むようになる。いくぶんパラドクシカルなことに、東島作品のまえに立ったとしても、抽象表現主義の絵画についてしばしば語られるようにその色彩がこちらを包み込むことはないし、吸い込むこともない。むしろこちらを退け、拒み、立ちはだかる。そんな印象を抱く。

(2007年2月18日)

『ポンペイの輝き』展サントリーミュージアム[天保山]、2006年11月18日〜2007年1月21日)
新発掘史料をまじえ、宝飾品を中心にした古代ローマのポンペイ(およびその周辺都市)の展覧会。

噴火で亡くなった人々の、灰に刻印された痕跡に樹脂を流し込んでかたどられた像が、いくつか展示されていた。人間の形姿をどこか残しているものから剥き出しの骨だけになっているものまである。けっして克明な像とはいえない。いわれなければ人間とは気づかないかもしれない。けれども、妙に視線を引きつけられる。と同時に、直視するのも躊躇われる。

展示品は発見された場所(家)ごとにまとめられている。それにより、古代ローマの都市の全体よりも、都市のなかの個々の家ごとの(そして人ごとの)差異が浮かび上がってくる。金の指輪や腕輪などの宝飾品は似たものが多い(とくに蛇をかたどったものが多い)が、家ごとに(人ごとに)置いていた場所ももっていた数も異なっていて、歴史展示では消去されがちな個々人の違いというものに考えをめぐらせてしまう。

(2007年1月16日)

『リアル・ユートピア――無限の物語』展金沢21世紀美術館、2006年11月23日〜2007年3月21日)
「リアル」と「ユートピア」という矛盾する語を結びつけ、その接点を問い直しうる作品を生みだしているという四人の作家、イ・ブル、草間彌生、岸本清子、木村太陽の作品をあつめた展覧会。

日常や世界の再考、と言葉でいってしまうとなんとも大仰な感じがしてしまうが、それは実際にはごくささやかでなんのてらいもない気楽で笑いに満ちたものだと思う。そういったものを真摯に思い詰めるほど、なにも考えられなくなるのだから。ともあれ、木村作品の意表を突いたユーモラスさに思わず笑ってしまう。電気コンセントに三つ又ソケットが大量に差し込まれ、ロボットのような怪獣のようなかたちになっているその頭のうえで、電球が輝いている。サッカーボールが縫い合わされて、赤ん坊のような姿勢の人形になっている。本がつなぎ合わされて蛇腹のようになっており、結局どの頁も開くことができない。

(2007年1月13日)

『ルソーの見た夢/ルソーに見る夢』展愛知県美術館、2006年12月20日〜2007年2月12日)
アンリ・ルソーの絵画、およびルソーの影響を受けた同時代や後世の絵画、さらにはルソーを参照している現代の絵画などを集めた展覧会。

ルソーの絵画を見てまず気づくのは、個々のモチーフを描き分けることへの関心と、それぞれのマチエールを描き分けることへの無関心の共存だ。浮き彫りされたように個々のモチーフははっきりとしている(とはいえ、ルソーの絵画には輪郭線は目立たない)のに、そのどれもがすべらかで若干光沢のあるような質感で描かれる。もしこうしたことが「素朴」と呼ばれるのであれば、逆に「洗練」とはマチエールや質感への鋭敏さを意味するのだろうか。

それにしても、今日、ルソーの絵画を見るとどうしても絵本や子供の頃によく読んだ本の挿絵を思い浮かべてしまう。

(2007年1月4日)

『ヨーロッパ肖像画とまなざし――16−20世紀の顔』展名古屋ボストン美術館、2006年9月16日〜2007年2月4日)
16世紀から20世紀に至るヨーロッパの肖像画を世紀ごとに並べた展覧会。

肖像画でまず眼を引き寄せられるのは、顔(とくに眼)、そして手(もし描かれているのなら)のように思う。それはたんに、その部位だけが布に覆われずにあらわになっているからなのかもしれないし、あるいは顔と手がもっともその表情がうつろいやすいからかもしれない。人間が人間を描くようになるのは、いつからなのだろう。時代も場所も散らばった肖像をまえにして、ふと思う。

(2007年1月3日)
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