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Events

展覧会、講演、公演などについての覚え書き

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アクースマティック・ライヴ「思い出の循環」同志社大学寒梅館クローバーホール、京都、2009年10月20日)
リュック・フェラーリのサウンド・インスタレーション《思い出の循環》を、アクースモニウムによるライヴで再現する演奏会。フェラーリ夫人のブリュンヒルト・フェラーリおよび檜垣智也の作品も同時に演奏。

今年はフェラーリ生誕80周年にあたるという。そのために、同志社ではフェラーリに関連したイベントがいくつも催されている。今回のコンサートは比較的小さな部屋でおこなわれたが、《思い出の循環》がインスタレーションとして展示されていた折の映像が流され、充実したものとなっていたように思う。すでにCDをもっていて、流れもほとんど憶えてしまっているが、アクースモニウムのシステムで聞くといっそう音の立体感が浮き立ち、フェラーリ特有の切断感覚をより楽しむことができる。

ブリュンヒルト作品は、フェラーリの残した音源も一部もちいているようだが、あくまでも切れ目のない流麗なアンビエントに仕上がっている。イマジネーションに忠実で、心安らかに聞くことのできる音楽。それだけに、再生機器の異常でスキップが起こってしまった瞬間のほうに、逆にフェラーリに通じるような感覚を見いだすことになった。

武満徹に捧げられた檜垣作品は、もともとアクースモニウムのために書かれているだけあって、やはり今回の上演作品のなかでもっとも音の空間構成が綿密に仕上がっている。数年前に聞いたフェラーリ追悼作品よりも個々の音の粒立ちがくっきりしていて、そのテクスチュアがとくに面白く感じる。アクースモニウムのシステムは、やはりチャンネルが二つしかないCDを強制的に立体化するよりも、もともとそのために複数チャンネルで構成された作品を上演したほうが愉しめるものになるのだろう、との印象を抱くことになった。

(2009年10月20日)

ジュゼッペ・ペノーネ展豊田市美術館、愛知、2009年7月7日〜9月23日)
近年の作品を中心に展示したジュゼッペ・ペノーネの個展。

1997年の同じ豊田市美術館での展覧会以来、日本では二度目の個展だという。ほぼ「一シリーズ一部屋」のかたちでゆったりと展示された作品群は、おもに近年のものに特化していて、昨年にパリ(マリアン・グッドマン・ギャラリー)とトリノ(カステッロ・ディ・リーヴォリ美術館)で見たものと同じシリーズが大半を占める。

とはいえ、カステッロ・ディ・リーヴォリ美術館で見た《影を呼吸する》の印象がいくぶん異なる。不思議に思って壁一面に積み上げられた葉入り金網ブロックに顔を近づけると、ローリエの香りではなく、別の、どこかよく知った気のする微かな香りがする――緑茶の香りだ。555個の金網に詰め込まれているのは、すべて豊田市で摘まれた茶葉だという。

ローリエに比べて茶葉の香りはあまりに微かだ。そのためにはじめは、カステッロ・ディ・リーヴォリ美術館で見たものほどのインパクトを感じられない。それでも、しばらく留まって、20分ほども茶葉に囲まれていると、茶の香りを嗅ぎ分けられるようになってくる。その嗅覚の変化は、あらためて経験するととても不思議な気がしてしまう。

あくまでも「彫刻」ということにこだわりを見せる姿勢が印象的なペノーネだが、呼吸すらも「彫刻」と捉えていたことを思い起こすと、この嗅覚の変化によって、制作と鑑賞とを一つの連続したプロセスとして感じられるように思う。時間と変化、あるいは流動性。

(2009年8月26日/9月23日)

L'exposition " Vassily Kandinsky "Centre Pompidou, Paris - FRANCE, 2009年4月8日〜8月10日)
ワシリー・カンディンスキーの最初期から最晩年までの主要作品を一同に会した大規模な個展。

すべての作品がほぼ年代順に展示されている。そのため、最初期のメルヘンなモチーフ――とくに騎士――が抽象画のなかに残存していく様子を見て取りたいという誘惑に抗うことは、けっして容易ではない。

個人的には、バウハウス期の幾何学的抽象の画面に惹かれるものをかねてから感じていたが、晩年の微生物ないし細菌的な世界をまとめて見てみると、その顕微鏡から覗いたような光景も面白い。ふと思えば、微生物や細菌というのは、二〇世紀以降の芸術にどのように入り込んでいるのだろうか。

いずれにせよ、もっとも素晴らしかったのは砂を使った晩年の絵。クレーに比してカンディンスキーはマチエールに対する感覚が希薄だなどとは、簡単には言えないのだと再認識する。

(2009年8月7日)

フェデリコ・ルイゼッティ講演会「生者の亡霊――ブラガリアの未来派フォトディナミズモ」京都造形芸術大学、京都、2009年7月17日)
イタリアの哲学者フェデリコ・ルイゼッティによる、ジュリオ・アントン・ブラガリアの写真実践をめぐる講演。

ブラガリアは弟たちとともにイタリアの未来派運動にいっとき参加し、写真作品と映画作品を(そしてまた多くの批評を)残している。写真実践では、運動中の被写体を撮ったぼやけた写真の数々で知られるブラガリアだが、ルイゼッティはそうした写真のなかに――ブラガリア自身によるアンリ・ベルクソンの哲学の「逸脱した」読解を経由しつつ――「見えるものの脱物質化」「生あるものの領域の拡張」を見いだしていく。

まずルイゼッティが注意を向けるのは、ブラガリアが心霊写真に批判を向けていたことである。ブラガリア自身のいくぶん神秘的な言葉遣いもあって、ブラガリアの写真はしばしば同時代の心霊写真と同類のものとされてきた。けれどもブラガリアは、写真が不可視の存在を写しうるなどということを少しも信じてはいなかったという。写真は、ブラガリアによれば、見えないものを見えるようにするものではまったくない。

では、ブラガリアにとって写真はなんだったのだろうか。それは、見えるものを脱物質化して、その潜在的な相貌を捉えるための手段だったという。この潜在的な相貌こそ「運動」であり、ここにブラガリアの「逸脱した」ベルクソン主義がある。つまり、「直観」や「持続」が問題とならず、むしろ伸縮自在で分割不可能な時間のかたまりとしての運動が最大の問題となるベルクソン主義である。

運動している伸縮自在な時間のかたまりを捉えることは「人間の力を超えている」と、ベルクソンがさりげなく語ったことから、ブラガリアはこの運動する時間を、人間の力ではなく「機械の力によって」、つまり写真によって、捉えようとする。だから、ブラガリアにとって写真の重要な側面は、「瞬間性」ではなく「記録性」であり、時間のかたまり、時間のひろがりを保持することだ、ということになる。

だからブラガリアの写真は、たんに運動を写した「運動のイメージ」ではなく、見えているものの潜在的な運動それ自体としての「運動しているイメージ」「運動を内包しているイメージ」たることを狙っているだろう。たとえその写真が過去の亡霊のような見かけをしているとしても、それは痕跡であるためではなく、ブラガリアが捉えようとしたのが過去と現在とにまたがる時間のかたまりであったため、つまり生き生きとした現在の相貌と亡霊的な過去の形姿とが相互浸透しあう運動であったためである――そう、ルイゼッティはいう。

その後講演はブラガリア以降の芸術へと眼を移し、フランシス・ベーコンのなかに脱人間化の運動を、ゲアハルト・リヒターのなかに脱表象化の運動を見いだして、締め括られた。

(2009年7月17日)

ライヴ・イヴェント「ATAK NIGHT 4」CLUB METRO、京都、2009年4月30日)
電子音響音楽レーベル[ATAK]による日本ツアーの京都公演。出演は、順に、evala、刀根康尚、渋谷慶一郎、池田亮司の四人。

刀根康尚のライヴ・パフォーマンスがおこなわれるというので、友人の誘いもあり、久々にクラブに足を踏み入れる。考えてみれば、七年もまえに同じような電子音響音楽のイヴェントで耳を痛めて以来のことだ(パリでディスコ・イヴェントに顔を出す機会はいくどかあったが、どれも専用のスペースではなく、音響システムもそこまでのものではなかった)。来日できなくなったパンソニックの代わりに参加という池田亮司のパフォーマンスも、最後に聴いたのは同じく七年もまえ。期待は高まる。

その刀根作品、音色の多彩さと展開のめまぐるしさで、この夜のほかの作品からひとつ抜きんでていたように思う。久しく制作から遠ざかっているのであまり確信できないが、この音色の多彩さはサンプリングした音を加工しているからだろうか、まったく飽きさせることがない。対照的に、evala作品と渋谷作品では、そのパフォーマンスの洗練された趣が印象に残る。近年のロック・テイストなエレクトロに通じるような歪んだ重低音、その攻撃的な音色も含めて、それでも洗練された趣を強く感じてしまう。

とはいえ、最後の池田作品の多彩なリズム・パターンに文字通り全身を揺さぶられて、結局のところ自分は重低音の紡ぐビートがもっとも好きなのだということを再認識する。加えて、それが自分の耳を損なうものであることも。結局また七年まえのように耳を痛める。数日のあいだは、この耳鳴りにつきまとわれることになるだろう。

(2009年4月30日)
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